尊敬と祈り

いやー、月初めくらいはブログを更新しよう、とかなんとか殊勝な思いで書いとかなくちゃなあ、なんて思うんですけども、このブログは始めてまだ3ヶ月経ってないので、もっと毎日更新とかしなくちゃあかんよね、なんてもね、思うんですよ。
ほいで、昨日はちょっと張り切って朝からネタを考えようとして散歩してたんですけども、それがまああなた、ランドマークにしてた池が見当たらなくって焦ってしまってわんわんわわ~ん♪

で、何が言いたいのかというと、しっかりエイプリルフールだということを忘れていた、という話。
毎年いろんなサイトのネタを見るのが楽しみだし、自分でももちろんやるのも楽しみですよ。
小説サイトをやってたときはBLゲームサイトにしたりとか、まあ色々やりましたね。
でもねえ、これってねえ、前もって仕込むだけの余裕がないと面白いと思えるものができないんですよ。
だから当日いきなり思いついて何かしようと思っても、あの程度のネタが精一杯で、しかも午後からUPして、いったいどれだけの効果があったのか、ってゆー、ね。

まあ、どうでもいいですか。でもそんなことに全力を注ぎたいんです。

皆様には「本物すぎる」とのツッコミをいただきまして、誠にありがとうございます。
フォームの埋め込みを、以前にテストしてたのに、どうやってやるんだかわかんなくなって、単純にリンクはったりとか馬鹿なことをして修正しまくって、ほんまにごめん。
ちゃんとした形にしたら速攻ネタの投稿してくれる人がいて、ほんまに嬉しい。・゚・(ノ∀`)・゚・。
来年はもっとしっかり練るわ。
しかしあの<妙な翻訳調>の文章書いてると、癖になるね。

というわけで、昨日読んでいた本の感想を書きます。


内田氏のことを知ったのは、たぶん、一昨年くらいの『宗教と現代がわかる本』だったと思います。巻末の図書紹介だったか記事だったかは忘れちゃったけど。
それ以降、図書館で借りてはせっせと読んでいます。
なんというか、面白いと思ったから読んでいるんですけどもね、この『呪いの時代』は、なんつーか、ああ、こういうこというアラ還いるなあ、というような感想ですわ。しかし、これもまた内田氏の一側面に過ぎない、ということですけども。

以前も内田氏とどなたかのインタビューを読んでいた時に「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」が出てきて、内田氏はこのフレーズが好きなのだなあ、なんて思ったりした。
公的な立場の人は疑われるようなことはするな、というお話ですな。
昨今はこの公私の区別がついてない人が多いと思うので、口を酸っぱくして主張しても言いすぎじゃないかもなあ。こういうこという人がいないと社会は回らないよね。

私なんか「李下」は覚えていたけど「瓜田」が思い出せなくて、ずーっと「なんかもうひとつあった、なんかもうひとつあった」って悩んでいた時期が長かった。
そして思い出したときに「どうやって靴に瓜を隠すんだろう」って悩み始めた。
靴に瓜を隠すんじゃなくて、脱げた靴が瓜田に落ちたからって拾うな、っつー話ですね。
はい、いろいろ思い出しました。

まあそんな感じで読み進めておりますと、出た。原発荒ぶる神説。
うん、嫌いじゃない、嫌いじゃないけど、それ言い出すと、マジでおがんじゃう人が出てくるから怖い。
これ、精神性の話をしてるんですよね。何も本気で原発鎮めの神社を作れとかいう話じゃない。
それくらい尊敬とか崇敬とかの、原発に対する気持ちを引き締めろってゆー話です。
それはわかるんだけど、もしかして内田氏が原発神社の発信元なの? って、なんかすげえ気持ち悪い気分になってしまったんですわ。
それもこれも私の身近に某ネットカルトにはまってそんなようなことを言い始めた人がいるからですけれども。まあ、気持ちの上で、そのくらい自分は引き締めてますよ、ってゆーなら話は別ですがね。それは特に否定するものでもないし、むしろ、私も推奨します。
ただ、どうも、ねえ。

いろいろ過去があってそう感じるだけの、まさに個人的感想なのであまり視点を固定しないで考えたいとは思うんだけど、こういうとこ、読んでて背中がむずむずする。

他人に対して尊敬の念がないと言っていることが通じない、というのもわかる。
けど、こういうの、自分と同等かそれ以上に理解が深いと思われる人にしか通じないでしょう。
ホロコーストとユダヤ教の例をあげて説明されているので話はわかりやすかった。
自分より上の存在が、自分もそれ同等のものとみなして「自分たちでなんとかしなさい」ってゆーてくれてはるんやで~、っていうことなんですよね。
だからそこ、なんだって。
自分より上、という理解がないと成り立たない。
今の社会、そんな風になってないよ。

これは確実に内田氏が見ている社会と、私が見ている社会が違うのだろうと思うの。
それは世代の違いだとも思う。経験してきた時の違い。時代の違い。
どうしようもないことだけど、やはりどこかしら経験則からだけで見ている部分はある。
まあ誰でもそうなんだろうね~。そんなことを読みながら思ったりしてた。

そうして思った。
私だって祈りの場があることの精神的安定は体感している。
だから祈りの場を持ちたいと思っている。
その心の隙間に入ってくる現代的なカルト宗教ではなくて、祈りを真摯に捧げられる場が欲しいと思っている。それは近所の神社なんかで充分なものなのよ。
祈りの本質って気持ちだから、本当は場所なんて必要ないけど、人間だから、ここは祈る場所である、という必要があるのよ。それもまた気持ちの問題なのよ。

ところで、この「祈り」と「願掛け」の違いを知っている人っているのかなあ。
なんかすごい少数派だと思うけどなあ。
そういうスピ系な人が、この本読んだら、きっと原発神社作っちゃうんだろうなあ。
そう思うと怖いなあ。内田氏を崇めているスピ系な人がいたら、ぜひご意見を伺ってみたい。

そんなようなことを思いつつ読んでましたわさ。
しかし、内田氏の理想とする社会ってのは、もし本当に来るのだとしたら、ものすごく時間のかかるあれこれをしないと無理なんだろうなあ。
私の世代でも、子供の頃から思ってたんだけど、ごはんを食べる時に「いただきます」というとか、お彼岸にはご先祖様の墓参りに行くとか、近所のお祭りの意味を知ってるとか、そういう伝統的な宗教文化に触れてない人って、案外多いんだよな。都会の人は特に。
こういうときは田舎でよかったと思ったりする。
蝉丸Pがいってる、宗教は社会のOS説も納得いくもんなー。
OSがあって、共通言語が成り立つんだよ。共通言語が成り立つと、アプリが色々できるんだよ。
そーゆーことなんだよな。

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