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多重人格もはたからみたら憑依にみえるんだけど

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久しぶりにビリー・ミリガンの映像を観て思った。 これって外部からみてみると、憑依とどう違うんだろう。 自分がチャネラーなどというものを経験しているから、こういうのにはやはり関心がある。 というか切っても切れないというか、何をもって「多重人格」という判断をされるのかに興味がある。 まあそりゃ医療として治す方法があるんだから、きっとなんとかの数値が異常である、とか、医者が判断するための基準とかあるんだろうけど。 これを観てて、なんで多重人格だと判断したかの説明みたいなところで、一番賢い人格の喋り方が、真似だけでできるものじゃないから、というような話があった。 それを観て思い出したのが、以下の話。 ここでは、知らない言語を喋っているという事実から、これはこの人の前世である、と結論づけているけれども、多重人格だという可能性については調べなかったんだろうか。 ビリー・ミリガンの例に沿って考えたら、否定できないんじゃないのかなあ。 それにやはり私の体験から考えられることは、これも憑依だと思う、って話だ。 今まだ途中までしか読んでないけど、蝉丸Pのご本で、瞑想などの身体状況から作り出される環境は、簡単に脳みそを騙す、というようなことが書いてある。 ストレスの多い環境下では、そこからの回避行動として、眠くなったりするんだそうだ。 ずーっとお経を聞いているとか、虐待されているとか、瞑想とか、そういう普通じゃない環境にいると眠くなる、とかがあったら、それは精神がそのストレスから回避しようとして働く自然現象なんだと。 それが脳みその正常な働きらしい。 ビリー・ミリガンは子供の頃からの虐待で多重人格になったという説明がなされている。 この催眠を受けている人だって、もしかしたらそういう状況で、過大なストレスの上でこの人格(番組内では「前世」とされている)を創りだしたのかもしれない、という考え方もできるんじゃないだろうか。 私だって憑依現象みたいになったことは何度もあるけど、それだってストレスの多い状況で精神がそこから逃げるための手段として「憑依」といわれるような現象が表出したといえなくもない。 チャネリングもそのひとつであるといえないだろうか。 チャネリングだって憑依のひとつだもんな。 結局、判断する人の立ち位置で、これは多重

呪われてしまいました

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オタクも長いことやってると、同じような事件が繰り返し起きていることに気づくものです。 たとえば、原作がアニメ化された、というような状況下において、「原作しか認めない」派と「アニメもいいじゃん」派とかにわかれてもめたり、というようなことが起きます。 細かいことをいえば、他にももめる原因はたくさんあるのですが、今回はわかりやすく二つの派閥にわけて考えます。 私はどちらのタイプかというと、どっちでもありません。 例えば原作が漫画だったら、漫画でしかできない表現や作者が描きたいと思っているテーマなんかをなるべく多く受け取るように読みます。 それがアニメになった場合、これはまったく別物だと考えます。 何故なら、制作している人間が、漫画なら数人で描けます(編集さんとか印刷会社とかは別にして原稿を制作するというだけの意味で)が、アニメだと数人ではできないからです。 しかも絵が動きます。音がつきます。時間の制限があります。紙じゃありません。 その他いろいろな物理的条件が、漫画とアニメではまったく違います。 そうなってくれば、それが同じ世界観、キャラクターの物語であっても、まったく違う作品としてみてもなんら問題はないと考えているからです。 制作している側も別の人間ですから、同じテーマを扱っているとしても、それぞれの考え方がまったく同一であることはありません。 当然表現方法もかわってきて当たり前の話。 ですから、漫画とアニメは別の作品としてみるほうが、受け手として幸せになれると考えています。 でもせっかくオタクなのですから、そこをおしてわざわざ「原作命」になるのもまた宿命。 避けられぬ運命なのですなあ(笑) まあそれもオタクの醍醐味ですから、オタクだという自覚があれば、わざとそういう宿命に囚われて、ジレジレしたりイライラしたりするのを愉しむわけで、それが正道なのでしょう。 このようにして、オタクであれば「ああ、この人は原作命なんだな」とわかれば、それ以上つっこまずに、「まあ俺はアニメも中々好きだよ」くらいに言っとけば問題ないのですけれども、これがオカルトになるとどーいうわけか、そうならないんですなあ。 心霊だとかいってる業界ですら、人間の作った世界観でしかないのに。 そのあたりのことは、こないだ紹介した本を読むと、すげえわかりやすく書い

嗚呼もうなにも言うことないわ~

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この中に、私も調べたり、本を読んだり、人から聞いたりしたことが、ほとんど書かれている。 目からうろこというよりも、すっきりした、というか、肯定されたようで、安心した。